自画像はどこから描けばいいですか
- 関根 優実
- 2020年11月5日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年6月22日
私は新しい仕事に胸を躍らせている。いつか携わりたいと思っていた分野だから。
自分の顔を描きましょう。この授業を受けたのは確か小学校中学年くらいの話。その頃から整えるのに苦労した前髪から、色を見定め一生懸命に描いていた。すると音楽担当の図画工作の先生が私の絵を急に手に取り「ちょっとごめんね」一言にみんなに見せた。「ユミちゃんとっても上手だけど頭から描いたらバランスがおかしくなっちゃうかもしれないからみんな鼻から書こうね~」とのことだった。なんとも侮辱された気がした。
別の時間、空想画を書くことになった。私はユニコーンと宇宙に広がる愛を描いた。無論その時は愛だなんて思って描いちゃいない。今振り返ってみればの話だ。
先生の想像していたカリキュラムよりも早く終わってしまった私に先生はこう言った。「早くかけたね!偉いよ。でもまだここが白いから色塗ろうね」この人はなにを言っているんだろう。はて、と首を傾けると今度は具体的に絵を触りながら「ここ、色塗ってね」と拷問してくる。
反抗心むき出しに、「白色で塗りました」と答えると、先生は「白い画用紙に白で塗ってもわからないでしょ?」と言った。「先生がわからなくてもいいです、寂しい人には見えないんですね、かわいそうに。」私にもう少し時間があればこう答えていたでしょう。先生は立て続けに「これじゃあ金色シール貼ってあげられないなぁ~」と言った。そう、優秀作品にはられるあの金色シールのことだ。私はその後どうしたか、もう忘れてしまった。
ここまで聞くと、義務教育の美術教育にいまだに腹を立てている女のように聞こえるが、そうでは無い。(いやそうかもしれない)
しかし、実際はもっと複雑な問題だ。
ここで重要なのは、彼女に悪気があったわけではない。と言うこと。
彼女が受けてきた教育が彼女のアート思考をそうさせたのだ。
幸い私は小学校の2年から毎週木曜日、絵画教室に通っていた。そこでは技術や知識ではなく、ありのままを生きればいいんだ、感じたことは間違ってないんだとアートを通して経験させてくれる場所だった。先生や周りの生徒は私を受け入れてくれた。ものを作ることや自分を表現することの楽しさを教えてくれた。木曜日は私の一週間を生き延びる糧だった。
中学に上がった私はますます美術に本気でのめり込んでいった。それと同時に怒りを覚えるようになった。その矛先は美術教育だけでは無い。日本の教育全てに不満を持つようになった。その頃から変えていきたいもっとこんな授業があれば、あんな教科があったらと妄想を膨らませていた。「自画像はどこから描けばいいですか?」「これって背景も描いた方がいいですか?」「評価のポイントはどんなところですか?」これらの言葉が消滅することを祈って。
私はアートを高尚なものだとも難しいものだとも思っていない。私はアートを絵画や彫刻などの有形のものだとも思っていない。私はアートをアート的知識の持ち主だけが語れるものだと思っていない。
アートは日常。それがある全ての人のもの。アートは生き物。想いある全ての事柄。
私の考えるアートは自分の『ものを見て感じたこと』や『考えたこと』つまり感性のこと。自分の感じた事を誰のものとも並べず競わず自分自身で尊重し自由に表現すること。その表現は誰の評価の上にも成り立たない。そう考えている。
私の新しい仕事は、通っていたアトリエの講師だ。ここで私は通う子ども達からたくさんのものを学べることに感謝している。昔の感情を忘れないよう、そしてこれから関わる人たちに同じ思いをさせないよう努めていきたい。
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